投稿日:2008-04-16 Wed
先日、「現在に意識を集中する」というのをこのブログに書きました。後半で、未消化な抽象論を展開してしまって、かえってよくない記事になってしまったかなとちょっと思っていたのですが、「今が大事」ということについてもう少し補足してみます。
中国のことわざ
中国のことわざに、
木を植えるのに、一番いいのは、30年前。次にいいのが、今だ。
というのがあるそうです。
「現在に意識を集中する」で伝えたかったことが、たった一行に凝縮されています。
いやはや、中国の長い歴史はさすがです。感服。
これについては、もう長くは語るまい。
投稿日:2008-04-03 Thu
パーソナルコーチングの創始者、トマス・レナード氏は、その著書『いつも「いいこと」が起きる人の習慣』において、過去ではなく、未来でもなく、「現在に意識を集中せよ」と説いています。 「未来」に意識を集中したらどうか?
過去のことをくよくよ悩むのがよくないのは誰しも経験から思い当たることがあるかと思いますが、じゃあ「未来に意識を集中したらもっといいのでは?」と思うかもしれません。
ところがそうではないのです。人は未来にも過去にも生きることはできません。意識があるのは現在だけ。それ以外の時間を生きるということはどうがんばってもできないのです。
これは自明のことなのですが、いざ自分自身のこととして考えると、「過去のいやな思いにとらわれて」いたり、「未来の心配事で頭がいっぱい」だったりするものです。
未来というのは不確定ですから、突き詰めていくと、最終的には「どうなるかわからない不安」が残ります。
ゆえに現在に意識を集中していく。
これを実践し、継続することで、その効果のほどがいかに素晴らしいものであるか、実感できることと思います。
活力を奪われないためにも
このことに気がつき、日々、生きている瞬間瞬間に意識を集中していくと、あらフシギ、様々な不安から解放されていることに気がつきます。
もちろん、未来のこと、過去のことを考えるなという話ではありません。現在を生きるにあたって、過去も未来もなしに生きることはそれもまたありえないことです。問題は、過去と未来に存在しているように感じている不安や恐怖、過剰な期待によって、現在を生きる活力を奪われないようにするということです。
楽器を演奏する人ならこういう経験があるかもしれません。
練習中の曲を弾いていて、苦手なフレーズを部分練習します。
ある程度できたと思い、「じゃあ通しでやってみよう」としたとします。そのときに、意識がその苦手なところだけに向いていると、苦手な部分とは関係なくできていたはずのところですら変なミスをすることがありますよね。
熟練したプレイヤーはまた違った次元であるかもしれませんが、初歩のころを思い出してみてください。きっとそんな経験があるはずです。
たまたま音楽の例でしたが、他の分野でもまた似たようなことがあると思います。
人の生き方も同じで、変に未来を意識すると、現在にしわ寄せがやってくるように思います。
結局のところ、
既に過ぎ去ったことについては「後悔先に立たず」、
未来への過剰な不安、心配、期待は「杞憂」、「捕らぬ狸の皮算用」
と昔の人が散々苦労して経験を積み上げ、残した言葉に集約されているのです。
哲学・思想の領域では?
「現在に意識を集中する」ことの重要性は、ここまでで充分ご理解いただけたかと思いますが、クリエイターさんに向けてということもあり、もう少し抽象的なレベルでつっこんでみることにします。
では、日常的なレベルで「現在」といっていること、この定義を考えてみます。
「時間(現在、過去、未来)とはいったい何なのか?」
という問いですね。「時間」という概念についての疑問です。
正直、私ごときが論ずることではないのでしょうが、なんだか現代日本、こういうテーマに挑戦する人が少ないので、私の中での現時点の整理だけでもしてみることにします。
とりあえず、音楽という側面から考えたことを、ちょっとまだまとまりがないですが、書いてみることにします。
まず、音楽という芸術は、時間を扱う芸術であるということ。
ご存知の方も多いと思いますが、もっとも極端な例ではジョン・ケージの「4分33秒」という曲。そのタイトルの時間の間、まったく演奏を行いません。楽音としての音は一切ない曲というわけですね。
変な話、音がない曲はあるけれど、時間のない曲はないことになるわけです。もっとも「楽音がない」という意味ではありますが。
いやいや、同じくジョン・ケージの「0分00秒」があるではないか。となりますが、
この題名は演奏時間を表しているということではなくて、これまた楽音はないけども、いわゆるノイズはあるという曲のようです。
それでは演奏時間「0分00秒」の曲を作ったとして、それを表現できるのか?という問題。
それは本当にゼロだとすると、必然的に「時間」ということに考えがいたります。
この問題について、私自身考え始めて日が浅いので、紹介するにとどめますが、日本ではこのこと(つまり「過去、現在、未来って何か?」ということ)を大森荘蔵さんという哲学者が非常に注意深く考えておられたようです。
音楽と関係するところでは、坂本龍一さんとの対談があり、それをまとめた『音を視る、時を聴く哲学講義
そこでは「現在只今」という語を用いて、この我々の生きている時間を説明しようと試みていました。 前掲の対談では、我々が実体験として感じている「今現在」を非常に慎重にどう捉えたらよいか、どう表現したらよいかということについて考えていることがうかがえました。
また、仏教でもいい表現がないか探したが、「刹那」でも、道元禅師の『正法眼蔵』にある「有時」の時間論でもぴったりとあてはまらない、ということが語られていました。
西洋ではマルティン・ハイデッガーの『存在と時間』(Sein und Zeit)がありますが、辻村公一さんの翻訳では『有と時』としてあるのが、象徴的ですね。
だんだんボロが出そうになってきたので、ここらで一旦終わりますが、たまにはこういうことを考えてみるのも面白いことかなと思います。
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